大判例

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東京高等裁判所 昭和63年(ラ)884号 決定 1989年2月15日

抗告人 木村富美江

主文

原審判を取り消す。

抗告人の氏「木村」を「新井」に変更することを許可する。

理由

一  本件抗告の趣旨は主文同旨の裁判を求めるというにあり、その理由は、別紙「抗告の理由」(写し)記載のとおりである。

二  一件記録によれば、次の事実を認めることができる。

(一)  抗告人は、新井雄二と、昭和45年5月18日、夫の氏を称する婚姻をし、以来抗告人は新井の氏を称してきたところ、両者の離婚を認める判決が昭和63年6月23日確定し、これにより両者の離婚の効力が生じた。

(二)  抗告人は、離婚後も婚姻によって称することとなった氏(婚氏)である新井を称する意思であったが、右判決による離婚の届出を裁判確定の日より4か月以上経過した同年11月4日にしたため、民法第767条第2項の規定による婚氏継続使用の届出をすることができなかった。

(三)  抗告人と雄二との間においては、右離婚判決確定直後、その共有財産である目黒区○○○×丁目××番地所在の敷地権付マンション○○○○○○×××号居宅56.53平方メートルを、右判決に従い、財産分与として抗告人が5分の4、雄二が5分の1の割合で分割するため売却することに合意が成立したが、その際それまで6年間単身で居住し続けていた雄二は、抗告人に対し「離婚をした事実を知られると転居先を見つけるのが難しくなるので、転居先が決まるまでは離婚届をしないで欲しい」と要請した。抗告人としては、離婚後における子供の養育費を確保するために右マンションの売却がどうしても必要であったのでこの要請を受け入れた。しかしながら雄二は、抗告人の度々の請求にもかかわらず容易に右マンションを明け渡さなかったのであるが、そのうち抗告人は、離婚訴訟の際雄二の代理人であった弁護士から、雄二は離婚訴訟で敗訴して精神状態が不安定になっていると告げられたので、性急な督促をすれば取り返しのつかない事態が発生するかもしれないと憂慮し、以後明渡しの請求を差し控え、雄二が任意に立退くのを待っていたところ、同人は、昭和63年9月末日に至り漸く右マンションを立退いたが、その時すでに離婚裁判確定後3か月を経過していた。

(四)  抗告人が離婚届をしてから現在までは約3か月の短期間であるうえ、抗告人は離婚届出後も婚氏である新井の氏により社会生活を送っており、復氏による新たな呼称秩序はできておらず、戸籍上の氏を新井に改めることによって抗告人の識別に関し社会に混乱をもたらすおそれはない。

(五)  抗告人は、昭和45年5月雄二と婚姻以来すでに18年間も新井の氏を称し、特に小学校教論として勤務していた関係上、児童、教職員、都内の美術関係者らに多くの知己をもっており、木村の氏にするとかえって人物の同一性の識別に混乱を生じさせるおそれがある。

また、抗告人は、中学校在学中の長女良江及び長男博明の親権者として同人らを養育しているが、子らは母である抗告人の氏が木村となることに強い抵抗を示している。

三  ところで、離婚によって婚姻前の氏に復した者が婚氏を引き続き称するためには民法第767条第2項の規定により、離婚の日から3か月以内に戸籍法の定めるところによりその旨を届け出るだけで足りるのであるが、右の期間内にその届出をしなかった者すなわち一旦婚姻前の氏に復しこれを称することとなった者が再び婚氏を称するためには、一般の原則に戻り、戸籍法第107条第1項の規定により、「やむを得ない事由」がある場合において家庭裁判所の許可を得てその旨届け出なければならないものである。

一般に、氏の変更についてこのように厳しい制約を課しているのは、氏は人の同一性を識別するために、名とともに、かつ、名よりさらに高度に社会生活上極めて重要な意義を持つものであるから、みだりにその変更を認めると社会生活に混乱が生じ社会の利益を損なうおそれがあることに基づくものであるが、かかる法の趣旨に鑑みると、婚姻期間中長期にわたって婚氏を称してきたことにより、社会生活上すでにその婚氏によってのみその者の同一性が識別されるような状況になっている者が離婚し、婚姻前の氏に復した場合においては、その者が離婚後余り日時の経過しない時期にその氏を婚氏に戻すのであれば、前記のような混乱が生ずる可能性は少ないので、右のような場合には「やむを得ない事由」を一般の場合よりゆるやかに解して差し支えないものというべきである。けだし、離婚の日から3か月の期間内にその旨の届出さえすれば婚氏の継続使用が認められるとする前記民法の規定の趣旨も、結局のところ、このように離婚をした者が引き続き婚氏を称しても社会生活上混乱が生じる可能性が少ないこと、更には婚姻中婚氏を称することによってそこに一つの呼称秩序が成立している事実を尊重する必要があることなどから、離婚後において引き続き婚氏を称するか否かを、当人の自由な選択に委ねたものであり、ただいつまでもこの届出をすることができることとすると、離婚復氏による新たな呼称秩序との間で混乱を生じるおそれがあるところから、3か月の期問を定めたものと解されるからである。

四  そこで翻って本件をみると、前示のように、抗告人は離婚に際し婚氏を継続使用する意思をもっていたが、別れた夫の要請で離婚届出を控えているうちに法定期間を徒過し婚氏継続使用の届出ができなかったこと、本件申立ては、法定の3か月の期間より2か月余りを経過したに過ぎない時点でされているのみならず、その間抗告人は新井の氏で社会生活を営んでいたので、新井に改氏させても抗告人の同一性に関する識別について社会に混乱を生じさせるおそれはないこと、抗告人はすでに18年間以上も新井の氏を称してきたのであり、教師として、また、2児の親権者として新井の氏の継続使用をする実際上の必要性が存することの諸事情が認められるのであって、これを前示説示に照らすときは、本件抗告人の氏の変更許可の申立ては、戸籍法第107条第1項のやむを得ない事由があるものとして許可するのが相当であると判断される。

五  よって、抗告人の申立てを却下した原審判は相当でないからこれを取り消し、抗告人の申立てを認容することとして主文のように決定する。

(裁判長裁判官 安國種彦 裁判官 清水湛 伊藤剛)

抗告の理由

一 (原審判)

抗告人は東京家庭裁判所に対し、抗告人の氏「木村」を「新井」に変更する許可を求める申立てをしたが、同裁判所は、昭和63年12月21日、右申立てを却下する審判をした。

二 (原審判の理由)

原審判は前記却下の理由として、

『申立人は、昭和63年6月23日確定した前夫新井雄二との間の離婚判決に基づく戸籍届出を同日から3ヶ月経過した後の同年11月4日なしたため民法771条、767条2項の届出ができず、婚姻前の氏である「木村」に復したままになってしまった。しかし、申立人は、長女新井良江(昭和48年7月12日生)および長男新井博明(同50年5月21日生)の親権者であり、同児らと同居して監護を行なっており、又、これまで18年小学校教諭として「新井」姓を名乗り、転勤先のみならず都内の美術指導関係者の間でも著名な存在になっているので、現時点で「本村」姓に復したままになることは不都合である。そこで今般、「新井」姓を称したく、本件氏変更の申立に及んだというものである。そこで判断するに、本件審理の結果に照らすと、概ね上記申し立ての要旨に即した事実を認定することができるが、かかるをもって戸籍法107条1項所定の「やむを得ない事由」に該当することは認め難く、他にこれを肯定するに足りる事情も見出せない。』

というにある。

三 しかしながら、原審判の判断は、離婚後復氏したものから婚氏への変更許可の申立てを認容した東京高裁昭和49年(ラ)第418号氏変更許可申立事件同年10月16日決定の、戸籍法107条1項の「やむを得ない事由」は画一的に解すべきではなく、一般の氏の変更と離婚復氏者の婚姻中の氏への変更とを同一に扱うのは相当ではなく、「やむを得ない事由の要件を緩やかに解して、婚姻中の氏への変更を認める」とした判断と矛盾するものである。

同じく婚氏変更の申立てを認容した昭和54年5月17日名古屋高裁金沢支部決定・昭和53年(ラ)18号は、「婚氏は通氏と異なり、その使用が強制されていたのであるから、その永年使用による実績は、通氏の場合以上に尊重されなければならず、婚姻期間が長ければ長いほど復氏した後にその氏を婚氏に変更することの正当性は強まり、戸籍法107条1項の「やむを得ない事由」の存否を考えるに当たっては改氏一般の場合に比し基準を続やかに解するのが相当である。」としている。

昭和51年の民法767条2項の制定により、3ヶ月以内に戸籍法の定める届出を行なえば、婚氏を称する事ができるのであるから、戸籍法107条1項により改氏を認めることは、民法767条2項に3ヶ月の期間を設けた精神が没却される(昭和52年1月5日・大阪家審判・昭和51年(家)2894号)との批判も考えられるが、同項を設けた本来の趣旨、すなわち婚氏継続の必要性の尊重という点から考えるとき、右批判は正当ではない。

民法767条2項の制定後も、昭和52年9月13日神戸家裁姫路支部審判・昭和52年(家)691号、昭和56年10月7日札幌家裁審判・昭和56年(家)2947号、昭和60年1月31日福岡高裁決定・昭和59年(ラ)113号等の婚氏容認の裁判例がある。

いずれの裁判例も、「永年にわたり、婚氏を使用して、これが個人の呼称として社会に定着していること」「養育監護している子供との同居生活上の支障から婚氏使用の必要があること」「婚氏に変更することにより、第三者に不測の損害を与える等の社会的弊害の生じるおそれがない。」等の理由により、戸籍法107条1項の「やむを得ない事由」に該当するものとして、婚氏への変更許可を認めている。

原審判は右の事実を認めながら「やむを得ない事由」に該当することは認め難いとするもので、その理由については何ら示されておらず、その判断は不当である。

四 原審判は申し立て却下の理由として、『申立人は、上記離婚届出が遅れたのは、前夫との財産関係の決着を含む確執が治まらなかったためであるので、上記「やむをえない事由」の解釈に当たってはこの点をも考慮されたい旨主張している。しかして申立人提出の資料によると、当該主張に即した事実の存在が窺えないではないが、申立人が民法771条、767条2項所定の3ヶ月の期間に間に合うように離婚届出およびこれと合わせて離婚の際に称していた氏を称する旨の届出をなさなかったのは、前夫との確執が原因であるとはいえ申立人自身の判断に基づく結果であり、当該各届出を前記所定の期間内に行なうこと自体が客観的に不可能であったとは認め難いのであって、これによれば、申立人の上記主張も又採用し難いところである。』と述べている。

しかしながら、抗告人が、民法771条、767条2項所定の3ヶ月の期間に間に合うように離婚届出および婚氏を称する旨の届出を為さなかったのは、抗告人自身の全く自由な、抑圧されない判断に基づく結果ではない。離婚判決確定後、抗告人は極力すべてを早期に解決したく、前夫に代理人を通して再三再四話し合ってきたが、前夫の代理人の話では、前夫は精神的に極めて不安定な状態となっており、前夫の判断や指示に従わなければ、身の危険が発生しても自分は責任が持てないとまで言われ、待ち続けなければならなかった。前夫はやっと本件マンションから立ち退いたが、いまだに売却の話も進んでいない。前夫の代理人の話では、抗告人の代理人の矢の催促にもかかわらず前夫の精神状態のよいときに話すから今年の末まで待ってほしいとのこと、であったが、いまだに前夫からの回答は返ってきていない状況にある。

抗告人は、子供2人と、年老いた両親を抱え、前夫からの身の危険を示唆する弁護士の言葉に怯え、かつ生活のためには円滑に財産を処分しなければならず、事後処理をすべて前夫の指示に従わざるをえなかったため、離婚届出が遅延したことはやむを得ない処置であって、このような場合、抗告人の判断自体が強要された状況の下で行なわれたもので、自由な意志判断によったものと判断することは出来ない。

また原審判は、所定期間内に届出をすることが客観的に不可能であったとは認め難い、と判断したが、客観的に不可能であれば「やむを得ない事由」に該当するとの判断は全く合理的理由がない。けだし不可抗力の事態が生じない限り、届出は客観的には可能だからである。

しかし問題は、届出期間を経過してしまったいきさつや事情は、これを氏変更の要件存否の判断の際に斟酌されるべきものであり、かつ、これをもって抗告人を責めるべき事情でないことも、抗告人サイドにたって考慮を払うべきである(前記昭和56年10月7日札幌家裁審判)。

なお、抗告人の改氏の具体的な必要性については、抗告人代理人の上申書に詳論した。

以上のとおり、原審判は不当であるから、その取消を求める。

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